東日本大震災から10年で思うこと
あの日のこと
3.11のあの日、都内から千葉まで7時間ほど歩いて帰宅しました。「普段から運動していること」「都内から自宅までの道のりは分かっていたこと」や、携帯も通じず家族が心配であったこともあり、歩きはじめは電車もすぐに復旧するだろうと安易に考え、動き出していました。ところが、途中でJRも地下鉄も何駅か見ても全く復旧する目処が立たないとのこと。
最初の2時間ほどで17時頃でしたので、コンビニでお茶とパン一つ買って腹ごしらえしてから、さらに歩き出します。その後、さらに1時間ほどしてコンビニに入ると、そこには食料も水も殆ど無い状況でした。そこで、事の重大さに気付くことになります。
表参道を過ぎたあたりで途中で諦めかけて「1~2万円くらいだったら自転車を買っても良いかな」と思い自転車屋さんを見たところ、高級自転車以外は軒並み売り切れの状況。さすがに10万円もの高級自転車を買う勇気は無く、バスも動かずタクシーも拾えずの状態に愕然としながら、通話ができないため携帯の災害掲示板だけを頼りにひたすら歩きました。
そこからはひたすら暗くなっていく夜道を黙々と歩くのみでした。国道沿いを帰宅難民と言われる方々と一緒に、皆さん言葉少なげにひたすら前に進んでいきます。携帯のバッテリーも少なかったため、たまに通話出来るかを確認しながら、それでも通じない携帯を片手にひたすら歩きました。
江戸川を超える手前辺りではふくらはぎと太腿がパンパンになり、足の重さに気付いたことを覚えています。普段から歩くスピードは速くするように心がけていますが、6時間を超えたところで、後から来た徒歩の女性に追い抜かれたことに驚きを感じました。革靴で長時間歩いたことは今までに経験が無く、後で気付くと爪先が靴に当たり踵も擦れたため出血していました。
江戸川を超えたところでやっと電話が通じ、家族の安否を知ることになります。途中まで迎えに来てくれた家族の車の助手席に疲労困憊で座った時の安堵の気持ちは今でも思い出します。
「大規模な火災が広がる気仙沼市…陸自提供」
陸上自衛隊東北方面隊は、11日午後8時過ぎ、宮城県気仙沼市上空から、大規模な火災が発生している状況を撮影し、報道機関に提供した=2011年3月12日公開
引用)読売新聞オンライン[東日本大震災気仙沼火災]
https://www.yomiuri.co.jp/stream/article/02187/
帰宅して見たテレビの映像は想像を遥かに超えるものでした。帰宅難民程度で済んだ私の苦労は些細なもので、画面に映ったのは、火災や津波などの二次災害で家財だけでなく命を落とされた方々のニュースでした。
あれから10年、喉元を過ぎれば熱さを忘れるではないですが、ふとあのときのことを振り返って記事を書いてみました。命を落とさず今が幸せであることに感謝をしながら、これからも幸せでいるためには何をしなければいけないのかを、3.11を機に考えてみたいと思います。
Yahooでは「東日本大震災から10年 のりこえるチカラ」として特設ページで今も苦労をされている方の支援を行っています。ぜひご覧ください。https://fukko.yahoo.co.jp/